前に、名前と感情について書いた記事の中で、こんなことを書いた。
「感情を持たないことと、感情に振り回されないことは違う」
「悲しいときに悲しい」「怒ったら怒る」。それ自体は、失敗でも欠陥でもない。むしろ、感情がちゃんと動いていることのほうが自然だ。問題は、その感情が発生したあとに、自分がどうするかだった。
そこで出てきたのが「眺める」という言葉だった。今回は、その「眺める」を、もう少し具体的に掘ってみたい。
「眺める」は、我慢とは違う
まず最初に、はっきりさせておきたいことがある。
感情を眺めるというのは、感情を抑え込むことじゃない。
「悲しいけど、悲しくないふりをする」 「怒っているけど、怒っていないふりをする」
これは、眺めているのではなく、蓋をしているだけだ。蓋をした感情は消えない。むしろ、行き場を失って、体のどこかに溜まっていく。あとになって、別のかたちで噴き出したり、なぜか涙が止まらなくなったり、理由のわからない疲労感になったりする。
眺めるというのは、真逆のことをする。感情を、なかったことにしない。むしろ、ちゃんと存在を認める。ただし、その感情に完全に乗っ取られるのではなく、一歩引いたところから見る。
イメージとしては、川の水に流されるのと、川岸に座って川を見ているのとの違いに近い。流されているときは、水そのものになってしまって、自分と水の区別がつかない。でも岸に座っていれば、「あ、今日は流れが速いな」「濁っているな」と、水を水として見ることができる。感情も同じで、乗っ取られている状態と、眺めている状態は、体感としてはっきり違う。
実際にやってみた話
これは、方法論として知っていても、実際にできるかは別の話だ。
ある日、誰かに言われた一言で、思っていた以上に傷ついたことがあった。自分でも驚くくらい、動揺した。いつもの自分なら、こういうとき、まず「なんでこんなことで傷つくんだろう」と自分を責めるところから入っていた。感じすぎる自分を、また悪者にしていた。
でも、その日はふと、「眺める」を試してみようと思った。
やったことは単純で、心の中で実況をしただけだ。
「あ、今、すごく傷ついてる」 「胸のあたりが、ぎゅっとしてる」 「これ、悲しいっていうより、悔しいのかもしれない」
言葉にしていくと、不思議なことが起きた。感情そのものは消えないのに、それに巻き込まれる感覚だけが、少しずつ薄れていった。「傷ついている自分」を、まるで少し離れた場所から見ているような感覚になった。
これが、たぶん「眺める」の正体だ。感情を消す技術ではなく、感情と自分のあいだに、少しだけ隙間を作る技術。
具体的なやり方(今のところの、自分なりの方法)
方法として整理すると、だいたいこんな順番になる。
1. まず、感情が起きていることに気づく
これが一番むずかしい。感情の渦中にいると、「今、自分は動揺している」と気づく前に、もう反射的な言動が出てしまっていることが多い。だから最初の一歩は、「あ、なにか感情が動いた」と、気づくことそのものになる。
2. 名前をつける
「悲しい」「怒っている」「悔しい」「不安」。できるだけ具体的な言葉を当てる。ここで曖昧なままにしておくと、感情がぼんやりと大きいまま、自分を覆ってしまう。名前をつけると、輪郭がはっきりして、扱いやすくなる。
3. 体の感覚を確認する
感情は、体のどこかに出ていることが多い。胸が締めつけられる、喉の奥が熱い、肩に力が入っている。体の感覚に注意を向けると、頭の中だけでぐるぐる考えるより早く、感情から距離を取りやすい。
4. 「これは今の私の感じ方だ」と確認する
ここが、前回の記事で書いた「境界線」の話とつながる。「私はこう感じる」という事実と、「これがすべての真実だ」という思い込みは、別のものだ。傷ついたのは事実。でも、その感じ方が唯一絶対の正しさというわけでもない。感情を認めることと、感情に支配された結論をすぐに出すことは、分けて考えていい。
5. そのうえで、どうするかを選ぶ
眺めたあとに、何もしなくてもいい。ただ「傷ついたな」で終わってもいい。あるいは、誰かに伝える、距離を置く、別のことに切り替える。眺めることの利点は、この「どうするか」を、反射ではなく選択としてできるようになることだと思う。
うまくいかないときもある
正直に言うと、いつもこれができるわけではない。
感情の勢いが強すぎるときは、名前をつける余裕なんてなく、ただ飲み込まれる。あとから振り返って、「あのとき、眺められなかったな」と思うことも多い。
それでいいと思っている。「眺める」は、感情を完璧にコントロールするための必勝法ではない。できるときもあれば、できないときもある技術で、できなかった自分を、また責める材料にしてはいけない。
むしろ、眺められなかったときこそ、あとからでいいから、少し時間をおいて眺め直せばいい。「あのとき、私はすごく怒っていたんだな」と、時間差で確認するだけでも、意味はある。感情は、その場でしか処理できないものではない。
眺めることと、感じすぎることの関係
前回の記事で書いた「感受性が豊か」というエピソードに、もう一度戻りたい。
感じる量が多いこと自体は、悪いことじゃない。ただ、感じる量が多い人ほど、「眺める」という一手間が、より必要になるのだと思う。感じる力が強いからこそ、その感情に飲み込まれるスピードも速い。だからこそ、意識して、一歩引く練習をする価値がある。
これは、感受性を鈍らせる話ではない。むしろ逆で、感受性の豊かさをそのまま持ちながら、それに振り回されずにいるための、もうひとつの技術だ。
感じる力を弱めなくていい。ただ、感じたことを、眺める力を、隣に置いておく。
その二つが両方あって、はじめて、「感じすぎる自分」は、欠陥ではなく、ただの特性になる。

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