260819-随筆観察.たぬきと裁判官と橋本さん係

たぬぬんの巣穴と、裁判官の制服

前に「感情を眺める」ということについて書いた。感情を消すのではなく、少し距離を取って見る。そういう話だった。

あれから、もう少し自分の中を覗いてみた。すると、思っていたより厄介な構造があることに気づいた。

感情そのものより、そのあとの裁判が苦しい

悲しい。腹が立つ。誰かを羨ましいと思う。人を妬む。情けないと思う。

こういう感情そのものは、実はそこまで苦しくない。苦しいのは、そのあとに続く二次的な反応のほうだ。

悲しい →こんなことで悲しむなんて弱い →弱い自分が嫌だ →こんな自分が嫌だと思う自分も嫌だ

感情の上に、感情に対する評価が乗っかる。さらにその評価に対して、また感情が乗っかる。気づけば、最初に何を感じていたのかもわからないくらい、積み重なっている。

これはもう「感情」ではなく「裁判」だ。感じたことそのものが、罪状として扱われている。

分析官が、いつのまにか裁判官になる

「なぜ私はこんなことで傷ついたんだろう」

この問いかけ自体は、悪いものじゃない。むしろ自分を理解しようとする、誠実な態度に見える。

でも、これが厄介なのは、途中でこっそり役割が変わることだ。

「なぜ傷ついたんだろう」 →「そもそも私は打たれ弱すぎる」 →「こんなことで傷つく人間はダメだ」 →「結局、昔から何も成長してない」

最初の「なぜ?」までは、観察だった。原因を見ようとしていた。でも、そのあとに続くのは観察ではなく、人格への有罪判決だ。分析官として仕事を始めたはずが、途中から裁判官の椅子に座っている。

しかもこれが厄介なのは、本人はまだ「自己分析している」つもりでいることだ。反省できる自分を、まじめな自分だと思っている。だから止めにくい。責めれば責めるほど、「ちゃんと向き合っている」感覚さえ生まれてしまう。

私の中には、いくつかの役がいる

この構造を考えているうちに、自分の中にいくつかの役割があることに気づいた。

いつからか、自分の中に出てくる状態に、勝手に名前をつけるようになった。何も纏っていないオフの自分を「たぬぬん」、名札をつけて働いている労働者モードの自分を「橋本さん係」と呼んでいる。どちらも、内なる私の設定にすぎない。呼び方に深い意味はない。ただ、名前があると、少し扱いやすくなる。

一つは、たぬぬん。感情をそのまま抱えている部分。悲しければ悲しいと感じ、腹が立てば腹が立ったと感じる。評価する前の、生の感覚。

もう一つは、裁判官。「そんなことを感じるなんて」「そんな自分は醜い」と、感情そのものに判決を下す役。

そしてもう一つ、橋本さん係。裁判官の暴走を止め、「今すぐ判決を出さなくていい」と間に入る役。

この三者の関係を、もう少し詳しく見てみたい。

たぬぬんは、裁判官に弱い

たぬぬんは、感情を受け止める係だ。でも、決して強い存在ではない。むしろ、裁判官にはとても弱い。

何かを感じたあと、巣穴に戻ったたぬぬんは、自分の中を一つずつ掘り返してしまう。

「ここも醜いんよ……」 「こんなこと考えたんよ……」 「オラ、だめ狸なんよ……」

自分から証拠品を差し出すように、感じたことを一つずつ裁判官に見せてしまう。裁判官は、それを全部、人格を否定する材料に変える。「ほら、やっぱりお前はダメだ」。たぬぬんは反論できずに、ぷるぷると縮こまって、めそめそ泣く。

これは「自己理解」に見えて、実は自己尋問だ。「私のどこが問題なんだろう」という問いが、いつのまにか「私のどこが醜いんだろう」にすり替わっている。

その裁判官は、本当に「私」なんだろうか

ここで、一つ大事な気づきがあった。

裁判官の制服と帽子をかぶっているのは、確かに自分のように見える。声も、話し方も、自分のものに近い。だから長いあいだ、「私は自分で自分を責めている」のだと思っていた。

でも、少し窓から離れて眺めてみると、別の可能性が見えてくる。

――この裁判官は、本当に「私そのもの」なんだろうか。

もしかしたら、裁判官は、どこかで身につけた話し方や価値観を、そのまま着込んでいるだけなのかもしれない。誰かから言われた言葉、育った環境の中で刷り込まれた基準、そういうものが、たまたま自分の声を借りて話しているだけかもしれない。

もっと言えば、裁判官には、実在する発言者すらいないのかもしれない。「そんなことで傷つくなんて」「いい歳して、それはどうなの」。こういう台詞は、特定の誰かが言ったというより、「世間様」とでも呼ぶしかない、輪郭のない権威から借りてきたもののように思える。

世間様は、実在しない。特定の顔も名前もない。訴えても、姿を見せない。問い詰めても、答えない。中身を開けてみれば、たぶん何も入っていない。

それなのに、たぬぬんから見上げると、世間様はとても巨大に見える。巣穴の入り口いっぱいに影を落として、逆らえない大きさで立っている。空っぽなのに、大きい。誰もいないのに、圧がある。これがたぶん、一番始末が悪いところだ。実体のあるものなら、いつか対決できる。反論できる。でも、相手が空虚だと、殴りかかる先がない。ただ、その大きな影の下で、縮こまるしかなくなる。

裁判官の正体は、もしかしたら透明人間なのかもしれない。誰も着ていない制服が、勝手に椅子に座って、勝手に判決を下しているわけではない。そこには、確かに「いる」気配がある。声も聞こえるし、視線も感じる。ただ、姿だけが見えない。振り返っても、誰もいない。それでも、判決だけは下り続ける。

そして、巣穴でぷるぷる泣いているたぬぬんのほうは、もっと幼い自分の感覚に近い気がする。

そう考えると、少し風景が変わる。「私は自分を責めている」ではなく、「私の中で、何かが子どもの部分を責めている」という構図に見えてくる。

これは、正体をすぐに特定する必要はないと思う。「これは幼少期の何々が原因だ」「これは身につけた考え方だ」と、急いで結論を出さなくていい。ただ、「あれ、この裁判官、本当に私なんだろうか」という問いを、問いのまま置いておく。それだけで、裁判官と自分のあいだに、ほんの少し隙間ができる。

感じることと、自分そのものであることの違い

ここで、少し思想的な補助線を引いてみたい。

仏教的な考え方の中に、怒りや悲しみは「私そのもの」ではなく、「私の中に生じては消えていくもの」として見る視点がある。怒りがある。でも、「私は怒りそのものだ」というわけではない。悲しみがある。でも、「私は悲しみそのものだ」というわけでもない。

この視点を借りると、「怒ってはいけない」という話ではなく、「いま、怒りが生じているな」と見るだけでいい、ということになる。感情と自分のあいだに、もともと少しの距離があるという前提に立てば、裁判官の判決も、絶対的な真実ではなく、一つの声にすぎなくなる。

本音と建前は、自分の内側にもある

日本語には、本音と建前という言葉がある。表向きの顔と、内側の気持ちを、使い分ける文化。

「大丈夫です」と言いながら、実は大丈夫じゃない。これは単純な嘘というより、相手との関係を壊さないための言葉だったりする。外の世界に対しては、建前を使うことに、みんなある程度慣れている。

でも、ふと思う。自分自身に対しても、同じことをしていないだろうか。

外向きには、「大丈夫」「気にしてない」「怒ってない」と言える。でも内側では、「本当は嫌だった」「悲しかった」「悔しかった」と思っている。問題は、本音があること自体ではない。その本音を、自分自身にまで隠してしまうことだ。

他人には建前が必要な場面がある。でも、自分に対してまで建前だけになったとき、本音を聞いてくれる相手が、どこにもいなくなってしまう。

尊大な羞恥心、臆病な自尊心

中島敦の『山月記』に、「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」という言葉が出てくる。虎になってしまった李徴という男の、内面を表す言葉だ。

これ、感情を裁かずに眺めるという話と、実はよく似ている。

「自分はこんな人間ではない」「本当はもっとできるはずだ」という尊大さ。同時に、「失敗して恥をかくのが怖い」という臆病さ。この二つは、矛盾しているようで、同時に存在している。

普通に考えれば、「尊大なのは悪い」「臆病なのは弱い」と評価してしまいそうになる。でも、裁判をせずにただ眺めるなら、こう言えるはずだ。

「ああ、私の中には、尊大さもある。臆病さもある。認められたい気持ちもある。恥をかきたくない気持ちもある」

矛盾する感情を、同じ場所に、そのまま置いておく。正しい感情だけを選び取って、あとは切り捨てる、というやり方をしない。

お茶を一杯いれるということ

もう一つ、生活の中にある比喩を挙げたい。

お茶を一杯いれる。お湯を沸かし、茶葉を入れ、湯を注ぎ、少し待ち、カップに注ぐ。それ自体はただの手順だけど、おもてなしという文化の中では、そこに「あなたのために、この一杯をいれました」という気持ちが乗る。感情を直接ぶつけるのではなく、形に託す。

感情の扱い方も、これに近いのかもしれない。「怒っている!」と、感情そのものをぶつける代わりに、

「私はいま、何に傷ついたんだろう」 「何を大切にしたかったんだろう」 「何を怖がっているんだろう」

と、一度形にしてみる。感情を消すのではなく、扱える形にする。たぬぬんが泣いているとき、原因を問い詰める代わりに、巣穴の前にお茶を一杯置いて帰る。それくらいの距離感でいい。

橋本さん係がすること

橋本さん係は、裁判官でもなければ、たぬぬんを無理やり引っ張り出すヒーローでもない。

裁判官には、こう言う。「言っていることが全部間違いとは言わない。でも、今日は判決を出さなくていい」

たぬぬんには、こう言う。「ぷるぷるしていていい。今日は原因究明しない」

窓の外から眺めている自分には、こう教える。「あの裁判官の言葉を、そのまま自分の本心だと思わなくてもいいんじゃない」

橋本さん係の仕事は、分析官をクビにすることではない。分析する力そのものは、悪いものじゃない。ただ、分析官に「人格の評価」までさせない。「何が起きている?」までは分析官の仕事。「だからあなたはダメな人間だ」は担当外。ここに、はっきりした線を引く。

窓から、石を投げない

自分を分析するというのは、自分の中に潜って、全部を掘り出すことじゃないと思う。

窓から中を覗いて、「ああ、今こうなっているな」と見る。それくらいでいい。

窓を覗いて、「あ、怒っている人がいる」と気づく。でも、「なぜ怒っているのか完全に解明しなければ」とはならない。まして、「怒っている。ということは私は未熟な人間だ」とは言わない。

「怒ってるね。何かあったんだね」

くらいで、いったん止めておく。

そして、これがおそらく一番大事なことなのだけど、窓から自分を見ることと、窓の外から自分に石を投げることは、まったく別の行為だ。窓は、観察のためにある。攻撃のためにあるんじゃない。

透明人間は、いない

でも、ここでもう一つ、大事なことに気づいた。

透明人間というのは、姿が見えないだけで、本当はそこにいる存在のことを言う。でも、裁判官はたぶん、それとも違う。

姿が見えないんじゃない。そもそも、そこにいない。

たぬぬんはずっと、「世間様がどう思うか」「普通はどうするか」「こんなことを感じたら恥ずかしい」「こんな自分を誰かが見たら嫌われる」と、観客に向かって自分を裁いていた。声が聞こえる気がしていたし、視線を感じる気もしていた。でも、それは、いるような気がしていただけで、実際にそこに立って、たぬぬんを見ている誰かは、最初からいなかった。

これに気づくと、感情を眺めるということの意味が、少し変わってくる。

眺めるというのは、正しい感情だけを選び取ることじゃない。感じたものを、片っ端から味わってみることに近い。

裁判官は、味を見る前に判決を出す。「そんな感情は醜い」「そんなことを感じるのはおかしい」「普通は、そんな味を嫌う」。食べる前から、もう「食べてはいけないもの」に分類されている。

でも、たぬぬんは、正体のよくわからない、赤黒い塊のようなものを前にして、こう呟く。「……これ、食べてみるんよ?」

恐る恐る、口に運ぶ。

「もしょ……」

そして、噛みしめてみて、初めてわかる。

酸っぱい。「んぺぺ! こんな味なんやぁ~!」 甘い。「おお~甘いんよ!」 苦い。「うぇ~、苦いんよ……」 悔しい。「くやしいんよ!」 嫉妬する。「うわぁ、オラ嫉妬しとるんよ……!」 嬉しい。「やったぁ! 嬉しいんよ!」

それでいい。酸っぱいものを食べたからといって、悪い狸になるわけじゃない。嫉妬を感じたからといって、醜い人間になるわけじゃない。怒ったからといって、怒りそのものになるわけじゃない。悲しんだからといって、弱い人間になるわけじゃない。

ただ、「もしょ……」と口に運び、「んぺぺ! こんな味なんやぁ~!」と味わってみる。そのうえで、「この味は好きじゃないな」「これはもう少し味わってみたいな」「これは誰かにぶつけるんじゃなくて、自分の中で消化したいな」と選んでいけばいい。

味わうことと、味に従うことは違う。怒りを味わっても、誰かを傷つけなくていい。嫉妬を味わっても、相手を貶めなくていい。悲しみを味わっても、自分を責めなくていい。感じることと、行動することのあいだには、ちゃんと余白がある。その余白が、たぶん「眺める」ということなんだと思う。

んぺぺ、こんな味なんやぁ

最初に「変わりたい」と思っていた。感情をもっと上手にコントロールできる人間になりたい、と。

でも今は、少し違う場所に立っている気がする。感情を持たない人になりたいわけじゃない。感情を持った自分を、すぐに裁かない人になりたい。

「変わる」というのは、これまでの自分を否定して、別人になることじゃないんだと思う。自分の中で起きていることを、もう少し丁寧に見られるようになること。それだけで、たぶん十分なんだと思う。

裁判官を倒す必要はない。透明人間を説得する必要もない。だって、いないんだから。

だから、たぬぬんはある日、巣穴からそっと顔を出して、きょろきょろする。

「……あれ? 誰もおらん?」

そして、少し拍子抜けしたような顔で、こう言う。

「まあええか。今日のお茶、うまいんよ」

酸いも甘いも、自分で味わって、「んぺぺ! こんな味なんやぁ~!」と言いながら、暮らしていく。

自分を裁く人生から、自分で味わう人生へ。「感情を眺める」というのは、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。

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