260819-随筆観察.自己の感情と名前について

夫婦別姓の話をすると、たいてい賛成か反対かという話になる。

姓が変わることに違和感がない人もいれば、ある人もいる。どちらが正しいという話をしたいわけではない。むしろ気になっているのは、その手前にある、もっと個人的な問いのほうだ。

結婚すると、名前が変わることがある。名前が変わることを「家族になった実感」として受け取る人もいる。一方で、名前が変わることに、うまく言葉にできないざらつきを感じる人もいる。同じ制度の下にいても、感じ方はまったく違う。

その違いはどこから来るのだろう、と考えていくと、結局「自分らしさ」ってどこにあるんだろう、という話に行き着く。姓は、単なる記号なのか。それとも、自己認識の一部なのか。

たぶん、その両方でありうる。だからこそ厄介で、だからこそ、人によって答えが違っていい。

わがままとは違う「自我」の話

「自分の意思を持つこと」と「わがまま」は、よく混同される。

主張する人、自分の感覚をはっきり言う人は、時に「自分勝手」だと言われる。でも、この二つは本当は別のものではないかと思う。

自我というのは、他人を押しのける力のことではない。むしろ、自分と他人のあいだに引かれる、境界線のようなものではないか。

「私はこう感じる」ということと、「でも、あなたは違うかもしれない」ということ。この二つが同時に成り立って、はじめて自我と呼べるものになる気がする。前者だけがあると、それはただの押しつけになる。後者だけがあると、自分がどこにもいなくなる。

境界線は、壁とは違う。壁は他人を締め出すためのものだけど、境界線は「ここからここまでが自分だ」と示すためのものだ。自分の輪郭がわかっているからこそ、他人の輪郭も尊重できる。

「感受性が豊か」と言われて、困った話

小学校の通知表に、「感受性が豊かです」と書かれたことがある。

先生からすれば、それはきっと褒め言葉だったはずだ。でも、家に持ち帰ると、親からは違う言葉をもらった。「それは強すぎる」。

同じ性質が、ある場所ではポジティブな評価になり、別の場所ではネガティブな評価になる。子どもながらに、その落差にひどく戸惑った記憶がある。

感じる量が多いこと。それを、長いあいだ「悪いこと」だと思い込んでいた。

悲しいときに悲しい。嬉しいときに嬉しい。傷ついたら、傷つく。それは、当たり前のことのはずだ。けれど、いつのまにか「感じすぎる自分」を、どこか欠陥のように扱うようになっていた。

感情がちゃんと動くこと自体は、制御に失敗しているということではない。むしろ逆で、感情がちゃんと動く人が、それを「制御できていない」と誤解させられているだけなのではないか。今はそう思う。

感情を制御するとは、感情を消すことなのか

「感情をコントロールしなきゃ」と思うと、たいていこうなる。

悲しくならないようにする。怒らないようにする。動揺しないようにする。泣かないようにする。とにかく、平静でいようとする。

でも、それは本当に「制御」なのだろうか。

感情を持たないことと、感情に振り回されないことは、まったく別のことだ。ここを混同すると、感情そのものを敵視するようになる。感じないようにすることが、成熟だと錯覚してしまう。

感情は、発生していい。そこは動かせない。問題は、そのあとにどうするかだ。

「私は今、悲しいんだな」 「これは、怒りなんだな」 「ずいぶん、傷ついたんだな」

そんなふうに、少し距離を取って、自分の感情を眺めてみる。感情を消そうとするのではなく、名前をつけて、確認する。そうすると、感情に飲み込まれる感覚が、少しだけ和らぐ。

感情を眺めるというのは、感情を否定することじゃない。むしろ、感情の存在を、いったんちゃんと認めるということだ。認めたうえで、「それに振り回されるかどうか」は、また別の話として選べるようになる。

名前の話に、もう一度戻る

ここまで来て、最初の名前の話に戻る。

名前も、感情も、根っこでは同じ問いにつながっている。「これを、自分のものとして認めていいのか」という問いだ。

姓をどうするかは、人によって答えが違っていい。感情をどう扱うかも、人によって違っていい。

でも、共通してよくないと思うのは、こういう言葉だ。

「あなたはこうあるべき」 「そんなふうに感じるべきじゃない」 「結婚したなら、こうするべき」 「そんなに傷つくのは、おかしい」

これらは全部、外側から自分のかたちを決められる言葉だ。名前も感情も、本来は「私はどう感じるんだろう」「私はどうありたいんだろう」という、自分の内側から立ち上がってくるはずのものなのに。

自分を大切にするというのは、自分の感情を全部言葉にすることでも、何でも自分の思い通りにすることでもないと思う。

そうではなくて、

「私はこう感じた」

という事実を、自分自身に対して、なかったことにしない。ただ、それだけなのかもしれない。

姓も、感情も、境界線も。すべては、「これは自分のものだ」と、まず自分自身が認めるところから始まるのだと思う。

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